明日を夢見て軍事境界線を越えようとする北朝鮮兵士ギュナム(イ・ジェフン)と、彼を阻止すべく追う将校ヒョンサン(ク・ギョファン)の息詰まる追走劇を描いた韓国映画『脱走』(6月20日公開)。
この作品に、圧倒的なリアリティと魂を吹き込んだのが、監修者として参加した脱北者のチョン・ハヌル氏だ。
彼自身、2012年に軍事境界線を越えて韓国に渡った経験を持つ。10年の兵役期間を終えようとした目前、「自分の人生を生きたい」と願ったギュナムの姿は、ハヌル氏自身の過去と重なるという。今回、オンライン取材に応じたハヌル氏に、自らの壮絶な脱北体験と、映画を通じて伝えたかったメッセージを聞いた。
●韓国から風船で飛ばされてきたビラが変えた人生
ハヌル氏は1994年、北朝鮮の咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムギョンナムドハムン)で生まれた。サッカー選手を夢見たが家庭の事情で諦め、2011年に軍へ入隊。
軍での生活は過酷を極めた。トウモロコシが主食の粗末な食事しか与えられず、非武装地帯(DMZ)での監視任務は、夏は蚊の大群、冬は凍傷に苦しめられた。
「1年勤務した頃、『この生活があと9年続くのか』と思うと、絶望的な気持ちになりました」
そんな時、彼の心を揺さぶったのが、韓国から風船で飛ばされてきたビラだった。
「北朝鮮の軍人に対し、韓国は電力も豊富で、経済的にも世界10位の大国だと書かれていました。当時いた場所と韓国は1.8キロしか離れていない。夜、真っ暗な北朝鮮に比べ、光の海になっている韓国を見て、無意識のうちにビラの内容が好奇心に変わっていきました」
金正日の死後も統一が実現せず、体制への不信感が募っていた時期。ビラは、ハヌル氏の自由への渇望に火をつけた。
●銃弾12発、胸まで浸かる沼…映画を超える決死の脱出
脱北を決行したのは2012年8月。大型台風で鉄条網が破壊されたのが好機となった。上司が寝ている隙を突き、小銃と手投げ弾を手にDMZへ足を踏み入れた。
「後ろから軍人に銃弾を12発撃たれましたが、当たりませんでした。地雷原も通りましたが、幸運にも不発弾だったりして爆発しなかった。映画のように沼にはまり、水が胸まで来ましたが、なんとか抜け出しました」
18時間に及ぶ逃走劇の末、韓国にたどり着いた。
映画でギュナムが最前線から韓国の風景を眺めるシーンを見た時、「自分がかつて見た光景と同じで、胸が熱くなった」と語る。
だが、恐怖も大きかった。「韓国軍に見つかると殺されると教えられていた。でも、それ以上に、この豊かな風景が広がる未知の世界を知りたいという気持ちが強かった」
●映画の“リアル”と“フィクション”
ハヌル氏は本作で、セリフを監修する「ダイアログコーチ」として、現代の北朝鮮の若者が使う言葉を指導した。俳優たちに北朝鮮の軍隊文化を教えるなど、制作に深く関わったという。
「セットは韓国なので全く同じではありませんが、全体的に北朝鮮らしい雰囲気がよく描かれていました」と評価する一方、現実との違いも指摘する。
「北朝鮮ではありえない描写もあります。まず、金一族3人の肖像画が一度も出てこないこと。そして軍人が指導者の顔が描かれたバッジをつけていないこと。これらは絶対にありえません」
また、作中で示唆される同性愛についても「北朝鮮ではタブー視されており、発覚すれば銃殺される可能性もある」と、体制の厳しさを語った。
●当たり前の「自由」の価値を伝えたい
チョン・ハヌル氏
韓国で本作がヒットした理由を、ハヌル氏はこう分析する。
「韓国の人々は生まれた時から自由が当たり前にあり、その大切さに気づきにくい。この映画は、自分たちが享受している自由が、誰かにとっては命がけで手に入れる価値のあるものだと伝えるメッセージになったのだと思います」
日本の観客に向けて、最後に次のように語った。
「この映画は単なるフィクションではありません。今この瞬間も、命をかけて自由を求めて脱走している人々がいることを知ってほしい。そして、皆さんが持つ自由がいかに大切で、夢に向かってチャレンジできることがどれほど素晴らしいことかを感じてほしいです」
【チョン・ハヌル氏 プロフィール】
兵役中の2012年夏に北朝鮮から韓国へ脱北。現在は俳優業のほかYouTuberとして活動している。
【映画情報】
『脱走』新宿ピカデリーほか全国ロードショー 監督:イ・ジョンピル 出演:イ・ジェフン、ク・ギョファン、ホン・サビン、ソン・ガン 配給:ツイン 公式HP:dassou-movie.com ©️2024 PLUS M ENTERTAINMENT and THE LAMP LTD. ALL RIGHTS RESERVED.